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2013年 01月 19日
柴又帝釈天 初詣の旅 その4
毎年正月は従兄弟(いとこ)のY氏(わいし)と共に、「それまで一度も行ったことのない神社に初詣に行く」というのを定番にしている私。
今年は柴又にある帝釈天を目指した。

というわけで今回は「柴又帝釈天 初詣の旅」の 4回目です。
柴又の帝釈天で初詣を済ませた我々は、矢切の渡しに向かったのだった。



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12時55分頃、正面に巨大な土手が現れる。「金町浄水場裏」という信号を渡ると広大な河川敷が見下ろせた。
河川敷の先にあるのは江戸川で、東京都と千葉県の県境になっている。

先ほどまで人でごった返していた狭い参道にいたから、まさに劇的な変化って感じだった。

ちなみにこの場所は、「男はつらいよ」のオープニングでお馴染みの場所らしい。

そうだったっけ。もう忘れてしまっているな。
私ですらこうなのだから、10代や 20代の若者などは「男はつらいよ」に対する思い入れなど、何もないだろう・・・。

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冷たい風に吹かれながら中河川敷に下りていく。案内板によるとこのあたりは柴又公園になっているようだ。

目的の「矢切の渡し」の葛飾側の乗り場はすぐに分かった。

ちなみに矢切の渡しの始まりは 360年ほど昔の江戸時代初期にさかのぼる。
その昔、江戸幕府はここに関所を作り江戸の出入りを取り締まっていた。
しかし江戸川両岸に田畑を持つ農民に限って関所を通らずに川を自由に往来できる特権があった。

それが矢切の渡しの始まりだそうだ。

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次の渡し船を待つ人の列ができていたが、その人数は10数名で思ったほどでもなかった。
帝釈天への参詣を済ませた連中が大挙押し寄せるんじゃないかと心配していたのに、ちょっと意外だった。冬場のせいだろうか。

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1時1分ぐらいにやってきた渡し船に乗り込む。

「次に回されるかもな」とY氏に話しかけていたのだが、ちょうど我々が一番最後の席(まあ席とはいっても板でできた長椅子のようなものです)に就く形になった。

運賃は直接船頭さんに渡す。ネットの情報によると 100円になっていたのに、200円に値上がっていた。あるいは正月特別料金だったのかな???

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1時3分ぐらいに船が出発する。
ちょっと風情のないことに、艪(ろ)で漕ぐのではなく、モーターだった。ま、これはしょうがないか。

ただそのモーターの音はとても静かだった。スピードもゆっくりだし、のんびりとした風情を感じることができた。
風が強かったから揺れを気にしたのだが(今でも船の揺れは苦手)、それも杞憂に終わった。

ちなみに船は 3艘ほどあるようで、他の船も満席だった。盛況ですね。

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1時9分、千葉県側の矢切の渡しに到着し、6分ほどの乗船が終わった。
まあ、どおってことはないけれども、わずか 200円だし、柴又の帝釈天で参詣したあとに利用してみてはいかがですか?

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降りてすぐの場所に、「矢切の渡し・細川たかし識」という石碑があった。
「識」っていうのは「書き記すこと。しるし」のこと。つまり細川たかしが書いた筆文字が元になっているのだろう。

「昭和59年3月吉日」とあった。調べてみたら「矢切の渡し」がヒットしたのはその前年の昭和58年で日本レコード大賞を受賞している。
ちなみに私が矢切の渡しという存在を知ったのも彼の歌からだった・・・。

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千葉県側の土手を越えると一面畑が広がっていた。そして畑の入口に「野菊の墓」の本を型取った記念碑があった。
そう、このあたりは伊藤左千夫(さちお)の小説「野菊の墓」の舞台になった場所なのだ。そんなこともあって、この先の畑の中に「野菊のこみち」という道が整備されている。

「野菊の墓」は伊藤左千夫(いとうさちお)の処女小説で1906年(明治39年)1月に「ホトトギス」に発表された。
主人公政夫がまだ少年のころに、家に来ていた従姉(いとこ)の民子との幼い恋を描いた純愛小説だ。

周囲の無理解から清純な恋が妨げられ、民子は嫁いで亡くなる。そこで政夫は少女の愛していた野菊をその墓の周囲に植えたのだった・・・。
ちなみに矢切の渡しは、政夫と民子の最後の別れの場となった所だそうだ。

とはいっても、「男はつらいよ」以上に、今の 10代や 20代の若者たちは「野菊の墓」のことなど知らないだろう。
正直私も読んだことなどないし・・・。

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というわけで畑の中に作られた「野菊のこみち」を歩いていく。シーズンには実際に野菊が植えられていたりするらしいが、何しろ真冬である。畑で目立っていたのはネギぐらいだった。

そもそも他に歩いている人が誰もいない。矢切の渡しを渡った連中は一体何処に行ってしまうのだろう・・・。

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途中に丘があり、そこに立派な野菊の墓の文学碑が現れた。

文学碑には伊藤左千夫の門人である土屋文明の筆による「野菊の墓」の文章が書かれている。
あとで写真を見たら、次のような文章だった。

僕の家といふは、矢切の渡し東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるんで、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される


これが出版された当時、夏目漱石が伊藤左千夫宛に手紙を送り「自然で、淡白で、可哀想(かわいそう)で、美しくて、野趣があって」こんな小説なら「何百篇よんでもよろしい」と評したという。

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ガイドは「芝生の上に立つ碑からは江戸川方面の空が広く見渡せて、小説『野菊の墓』のワンシーンを思い浮かべる」とあったが、なるほど眺めはよかった。

「野菊の墓」の主人公の政夫もこんな光景を見ていたのだろうか・・・。

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更に淡々と歩いていき、ご覧の矢切駅に到着したのは 1時48分だった。
帝釈天から矢切の渡しを経て、およそ 1時間の散策だった。

こんな程度の散策で私は結構疲れていた。最初の人ごみが私を疲労させたということもあるけれども、実はこの前日──つまり元旦の日、私はJR逗子駅から名越の切通しを越えて北鎌倉駅まで歩いている。

というわけで次回はそのときのお話をしたいと思います。
久しぶりに歴史散歩風に書く予定です。ご期待ください。

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by JunMorosawA | 2013-01-19 18:06 | | Comments(2)
Commented by kanageohis1964 at 2013-01-19 19:17 x
こんにちは。

「野菊の墓」、中学生の頃に何故か読んだことがあります。でも、全然ピンと来てませんでした。今思えばあの頃から散文的な性格だったんだろうと思います…。結局小説を全くと言っていい程読まなくなりました。

でも、こういう景観を世に広めるのに、小説が一役買っていた時代があった、ということは覚えておくべきでしょうね。今も同じ事が期待できるかというと、ちょっと難しそうですが。
Commented by JunMorosawA at 2013-01-20 17:26
kanageohis1964さん、こんにちは。

> 「野菊の墓」、中学生の頃に何故か読んだことがあります。

私にとっての「野菊の墓」っていうと、「松田聖子主演の映画があったなあ」ぐらいです(笑)。

> 結局小説を全くと言っていい程読まなくなりました。

私も年に数冊読むだけですよ。去年は村上春樹の「1Q84」に挑みましたが。

> こういう景観を世に広めるのに、小説が一役買っていた時代があった、ということは覚えておくべきでしょうね。

おっしゃるとおりですね。今のようにテレビのハイビジョンで景観が見られる時代じゃないですからね。


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